どうなってるのやら

あゆぽっぽ。あゆぽっぽ牛乳。

'universal' の幻想

 >> いまや書体メーカーも、「美的創作性はほうり投げて機能性だけでいいや」なのでしょうか。

 ↑昔あゆぽっぽはこう書きました。 もともとそこにある書体をアンバランス化させて「UD」の冠を貼りつけ、まとまり感を捨ててしまって書体ベンダは平気な顔なのかと。。

 しかし..

 この手の'取り組み'が早かったらしいイワタの論文?を眺めると、『UD化の要件を満たすため可読性やデザイン性の優先度を下げた』と書かれています。 さらに当初Pana'k'sonicへ納品されたUD書体の想定使途は「横組み,ざっくり10文字以下」だったようで、この前提を大きく越え「UDフォントが何にでも使える誤解」が存在することさえI社では認識している模様。 このベンダみずから(※初期のUDゴシックを)「文章には不適」とまで言いきる現状を考えると、UDは「オールマイティに使える」のではなく「みんなに見えやすい'だけ'」と考えるのが正解に近そうですね.. 少なくとも、欠点を織りこんだ上で市場展開している老舗があることだけは自分にもわかりました。。

 一方。

 現代のスタンダードとも言える某日本screenのUDは、「読みやすさは確保した上で、電子表示装置用に最適化」するアプローチを採りました。 先のイワタが「見やすさvs読みやすさ」のバランスを大きく変えUDゴシックを産みだしたのに比べ、screenは「紙用vsモニタ用」といった仮想軸?上で後者に寄ったものをヒラギノUDとしてリリースしたことになります。 開発経緯の違いからかS社は「短い文限定」といった条件を設定しておらず、少なくともI社の'UD'とは同じベクトル扱いはしちゃまずそうですね。 なお先のI社も、読みやすさに振った品としてUD新聞明朝等をラインナップしています。

 そんなわけで:

  • UD書体は万能じゃない
  • UD書体は「紙で読みやすい」基本書体とは違ったアプローチで作られている
  • UD書体を創る際のアプローチは、ベンダorデザインチームのポリシーがあって初めて決まる
  • 「UDxx」といった名称で、おおよその特徴を想像するのは危険

 ▲こういった話になってしまうのですが、「ユニバーサル」といった響きのせいで『既存書体のアップグレード決定版』だと思いこんでいるユーザー様or人集めWebサイトが変に目立ちます。 典型的UDフォントの見やすさ(濁点半濁点の調整etc)をさくっと紹介し、まるで「視認性と可読性を一番ハイバランスで実現したものがUDです」などと言わんばかりのかんちがいは尽きません。

 ..筆者が見た例では、「可読性/視認性/判読性が優れている」と並べておきながら、可読性に目をつぶりターゲットを絞ったイワタUDゴシックを真っ先に紹介している某サイト。 各社のUDには共通のコンセプトがあり、そこに可読性が含まれるとリードから言いきる某某サイト。 あなたたちのもたらすデザインが、できるかぎり多くの方へ伝わらないことを切に願っております。 ぁ~こりゃこりゃ。 ぽよしゅる~

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 universalは「いつでもどこでも、みんなに」的な意味で、inclusiveは「だれにでも、わけへだてなく」的なニュアンスを持つようです(cambridgeDictionary談)。 UDフォントが持つ使命として後者は納得いくのですが、これをユニバーサル呼びしてしまったため'いつでもどこでも感'が強調されすぎているのが現状ではないでしょうか。 「いつでもどこでも、長文も短文も」と考える、カジュアルUDユーザーのもたらす変化をあゆぽっぽはうれしく思っていません。